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岐阜県民の恵み・清流長良川
こんにちは!ハリボーです。
岐阜県民、特に関市民の生活に欠かせないのが長良川の恵み。
起点を郡上市に持つ一級河川は、産業や交通の発展に大きく関わってきました。
関市小瀬や岐阜市長良で開催される鵜飼は主要な観光要素に。
美しい水で育った鮎はブランドとして高い価値を有します。
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一方、水量豊富な長良川は暴れ川としても有名。
たびたび氾濫しては濃尾平野を水に沈めることから、岐阜の歴史は治水の歴史と密接に結びついてきました。
ダムや堤防が不完全だった時代には、氾濫によって流路が変わってしまうことも。
実は長良川も、約500年前に起きた大洪水でルートが大きく曲げられました。
今回は500年前の「幻の長良川」ルートを調査してみます。
500年前の長良川とは
まずは長良川の現在の姿をおさらいします。
長良川は大日ヶ岳(郡上市)に源を発し、美濃市、関市、岐阜市を経て伊勢湾に流れ込む全長166キロの一級河川です。
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「関市史」による文献調査では、1534年(天文3年)の大洪水によって関市近辺のルートが変わった旨の記載があります。
500年前の長良川の姿をマップに起こしてみます。
かつての長良川マップを作ってみた
関市千疋(せんびき)付近で南下する現在の流路とは異なり、以前は西方面に突き進んでいました。
鳥羽川を越えて三輪、太郎丸、梅原(現山県市)を抜け、伊自良川と合流して本田村(現瑞穂市)にて津保川と繋がったと史料に残されています。
下記マップは史料から私が推測して作ったもので、事実と異なる場合があります。
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現長良川のルートには、かつて津保川が流れていました。
岐阜城から見下ろす長良川は昔、津保川だったです。
500年前のルートに残るナゾ
さて、資料から推測した500年前の流路マップを作成しましたが、いくつか疑問が生じます。
私が特に気になったのは以下の2点。
- 三輪地区に現存する支流が無いこと
- 梅原付近で旧長良川が下から上に逆流していたこと
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謎①について、川の流れが変わっても旧流路は細い川が残ることが多いですが、マップ上ではそれらしい川が見当たりません。
川はどこへ消えたのでしょうか。また流域の人たちの生活はどうしているのでしょうか。
そして謎②について、マップ上では山県市役所から伊自良川までのルートが「上下逆流」していたように思えます。
わざわざ鳥羽川を越えて伊自良川まで、水が山登りするなどあり得るのでしょうか。
そんな疑問を抱えつつ、実際にポイントを巡りながら調査することにしました。
500年前の長良川を辿ってみよう!
今回調査するのは関市千疋~伊自良川までの区間です。
東から西に向かって自転車で進みながら調査します。
現長良川と旧長良川の分岐点
最初に訪れたのは関市千疋。
現在の長良川が武儀川と合流し南下する場所です。
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500年前にはこの地点で堤防が決壊し、一帯は水害に襲われました。
現在でも西側の三輪地区は一段低くなっており、水害が起こりやすそうな地形です。
分厚くて頑丈そうな堤防が建っているのも過去の大きな被害を想像させます。
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大洪水以前は長良川がこのエリアから西方面に流れていました。
現在ではそれらしい川が見当たりませんが、どこに消えたのでしょうか。
辺りは田園地帯で広大な田んぼが広がっています。
農地を眺めながら走っていると、あることに気付きます。
用水が妙にデカくて深い。
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上記一か所だけではありません。
詳しく見てみると三輪地区は縦横無尽に用水が張り巡らされており、しかもひとつひとつが大きいです。
東西を貫く山県用水を中心とした用水ネットワークは、水害時に大量の水を素早く流すセーフティネットの役割を有していることがわかります。
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流し込む先は山県市の石田川。
石田川は三輪地区の西隣、太郎丸エリアから山県市中心部の鳥羽川に向かって流れています。
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石田川の川岸も水量に対して広く設けられています。
水害対策と思われますが、さらにもう一つ理由があったと推測します。
地理的に見ても石田川は500年前の長良川の一部だったと考えられます。
ここまでの情報をまとめると、かつての長良川は千疋から西に進み、三輪、太郎丸を経て現石田川と繋がり、山県市中心エリアへ流れていた。
その中でも三輪地区は長良川が急カーブする水害危険エリアであり、天然の川が残る代わりに強固な用水を築くことで人々の生活が守られてきた。
謎①「三輪地区に現存する支流が無い」に対する仮説は以上です。
3本の川が交わる山県エリア
さらに500年前の長良川を辿っていきます。
山県市中心部に入ると石田川は鳥羽川と合流します。
鳥羽川は岐阜市北部に向かって流れ、岐阜大学付近で伊自良川と合流します。
合流地点は3本の川が一気に繋がる変則的な十字路のような形状。
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3つの橋梁が一列に並ぶ姿は全国的にも珍しい光景といえます。
一番左側から三田又川、鳥羽川、そして石田川です。
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右端の石田川を通ってきた500年前の長良川、普通に考えれば鳥羽川のルートに沿って南下しそうなものですが、実際は違いました。
なんと左端の三田又川を逆流するように北西に向かって流れていたとされています。
長良川が逆流していた?
川の向きが変わるという貴重な現象が起きた原因を探りましょう。
三田又川に沿って北西へと進みます。
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分岐点から約1キロ、大きくて綺麗な建物が見えてきました。
こちらは山県市役所。
山県市は2003年に発足したばかりの新しい市で、高富町、伊自良村、美山町が合併しました。
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気になったのは山県市役所の立地です。
建物のすぐ北隣に三田又川が流れています。
三田又川ではちょうど治水工事が行われていました。
注目すべきは川幅に対して左右に開けた大きな空間。
これは500年前の長良川が切り開いた広大な河川敷の名残ではないでしょうか。
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さらに上流、建設中の東海環状自動車道が見渡せる位置まで来てみました。
大きく広がる地形からは、かつて存在した巨大な川の名残を強く感じます。
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三田又川の脇に建つ山県市役所も、立地的に500年前の河川敷の一部だったことが想像できます。
現在は細い三田又川も、逆方向への流れを持つ巨大河川だったと考えると、地学の不思議さをひしひしと感じます。
分水嶺を探してみよう
500年前の長良川は山県市役所から北西方向に進み、梅原地区を抜けて伊自良川へと繋がっていました。
現在ではその東半分、三田又川の流れが反転しています。
ということは、伊自良川に向かう道中のどこかに水源が二手に分かれる分水嶺があるはずです。
分水嶺を探し当てにいきましょう。
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県道に沿って三田又川を追っていると、途中で農業用水路に変わりました。
さらに水路を辿ると神明神社に行きあたりました。
どうやら神社にある小さな溜め池が水源を探せる限界のようです。
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マップ上で見るともう少し西方面にも水路が繋がっています。
どうやら西方面の水路は枯れている模様。
それらしい溝を辿りながら西へ進むと、ちょっとした小高い丘を発見。
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この丘にある水路、調べてみると伊自良川方面(西方面)に繋がっています。
そして丘の東側にある農業用水は鳥羽川方面(東方面)に流れ出る水路。
すなわち、この小高い丘こそが水源を二手に導く分水嶺。
梅原小学校から約200メートル南方、マップにも載っていない現代の分水嶺を発見しました!
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…探し当てたのは良いですが、両方共水路が枯れています。
達成感が薄いですが、ともかく分水嶺を発見しました。
伊自良川との合流地点へ
分水嶺を離れて川を辿りながら西方面へ進みます。
川の名前は「しびり川」といい、かつては舟運の歴史を持つ重要な河川でした。
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伊自良川との合流地点付近には「七日市舟着場跡」が残ります。
地名からも市場が栄えていたことがわかります。
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川を舟運に使うにはそれなりの水量が必要ですので、昔は今よりも川が大きかったと思われます。
また、付近一帯が平坦で川の流れがゆるやかであることも発展に貢献したことでしょう。
川上りがキツければ荷物を運べませんから。
そして今回の旅の終着点、伊自良川との合流地点にやってきました。
下記画像の奥側が伊自良川、手前がしびり川です。
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伊自良川はここから南へ進み、岐阜大学を通って岐阜市西部を流れ、瑞穂市で現長良川と合流します。
500年前の長良川もこの先は同様のルートを通っていたと考えられます。
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今回私は関市千疋から伊自良川まで約15キロのエリアを調査しました。
川はまだまだ続き、伊勢湾まで約60キロの旅路を進みます。
500年前の長良川~調査結果~
1534年の大洪水以前の長良川の姿を辿る旅を終えました。
史料では不思議に感じた謎も、実際に歩くことで仮説を得ることができました。
- (謎)三輪地区に現存する支流が無い →(仮説)千疋~石田川までの区間は山県用水をはじめ多数の用水が整備されて街を守っている
- (謎)逆流して下から上に川が流れていた →(仮説)梅原地区はきわめて平坦な地形で、旧長良川は中間に分水量が作られて三田又川としびり川に分断した
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長良川の流路の切り替わりは人々に大きな影響を与えました。
伊自良川の水量が減ったことで鵜飼ができなくなり、鵜匠さん達が長良や小瀬に移り住んだことで現在の鵜飼の形になったといわれます。
岐阜城から見下ろす長良川も、織田信長の時代には長良川ですが、その以前に代々君主を務めた斎藤家では津保川だったのです。
以上が500年前の長良川に関する調査結果です。
岐阜の地学や歴史を探るとまだまだ面白いことがたくさんあります。
「綺麗さ」や「巨大さ」などわかりやすい魅力ばかりが取り上げられがちな現代ですが、教養を得て深く考察することで得られる喜びは大きな価値を持ちます。
本記事は調査結果を基に筆者が推測したものであり、学術的根拠はありません。